老いと花

還暦まであと1年半、日々の出来事や思い出を気ままに綴ります。

バイバイ ベイビー

 今日、出かける時に下の居間からテレビのCM が聞こえてきた。「幸せってなんだろう」と誰かが言っている。
 10年ほど前に、友人の一人に誕生日プレゼントを渡したところ、「どうしよう。幸せになっちゃうかも」と言った。確か、四葉のクローバーを模ったガラス細工のキーホルダーだったと思う。思わず「今だって幸せじゃない。健康で毎日仕事もして」と言いながら、薄っらな台詞に我ながら呆れた。彼女の言葉は当時、何かにつけて自分が心の中で呟いていたものだったから。
 だが、60歳に近づくにつれいつの間にか「健康で毎日仕事もして」いる状態で満足するようになった。特に大きなエネルギーを必要としないうすぼんやりとした幸せ。40代、50代とあれほど「愛し愛される関係」にしがみついていたのが嘘のようだ。これが年を取るという
事なのだろうか。
 とはいえ、本棚にはいまだに「バイバイ ベイビー」が一番目につく場所に置かれている。自分で何もかもしていた(おむつも自分で替える)赤ちゃんが、ある日はたと「自分にはママが必要だ」と気づき旅に出るのだが、その途中でいろいろな動物やおじいさん、若い男の人、そしてついにママになっても良いという女の人と出会い最後は皆なで家族になるという話だ。一生懸命、求めていれば最後には欲しいものが手に入るというハッピイ・エンディング・ストーリー。この話に心惹かれている内は、まだ心のどこかで、いつか本当に欲しいものが手に入るかもしれないと期待しているのかもしれない。

中途半端な運命

 30歳に差し掛かろうという時、ある駅で同世代の男性にいきなり声をかけられた事がある。やってきた電車に乗らないわけにもいかず、車内でしばらく話した。差し出された名刺には聞いたことはあるものの、すぐに顔を思い出すことはできない女優の名前が書かれていた。脇に「マネージャー」とある。半信半疑のまま受け取りながら、余りの強引な態度に鼻白む思いだった。
 その頃の交信手段はもちろん電話と手紙だけだったから、電話番号の交換に話が進んだ。差し出されたもう一枚の名刺の裏に番号を書くよう促され、いい加減な数字を書いた。本当に存在する番号でない事を願いながら。
 半年ほど経った頃、ある喫茶店の窓側の席で年上の友人と話に興じていた。壁面いっぱいの大きな窓から、外を行き交う人たちが見える。ふと視線を感じると、見覚えのある男性が足を止めてこちらを見ていた。外に出てくるように手まねきをしている。うその電話番号を渡したことがばれたのか、それとも結局電話はしなかったのか。仕方がなく友人を残して外に出ると、意外にも「あの番号にかけたら、違う人が出たよ」とだけ言い、あっさりと「じゃ、またよろしく」と人込みの中に戻っていった。
 車内で話した時、「君の名前(さすがにこれだけは本当の事を伝えた)は僕の妹の名前と同じだ。」と興奮気味だったが、彼にしてみれば運命を感じたのかもしれない。どちらか一方だけが感じても、運命の歯車は回り出さないものらしい。

100万回生きたねこの幸せ

 

   世界中で読まれている「100万回生きたねこ」を読んだのは、40歳をとうに過ぎてから
だ。きっかけはすっかり忘れてしまったが、大人になってから読んで良かったと思う。も
っと言えば、人を心から愛する経験を経てから読んで良かった。
 主人公の猫は、100万回、生まれては死に死んでは生まれ、その間、一度も幸せを感じることがなかった。だがある時、綺麗な雌猫と出会って恋に落ち子供が生まれ、やがて雌猫は老いて死んだ。その傍らで100万回泣いた後、自分もやっと死ぬ。本当に死ぬことができたのは、本当に生きることができたからだろう。
 半年前、ある人が「I have never felt happy in my life.」(これまで一度も幸せだと感じたことはない)とズーム画面の向こうで言った。そして先月、別の人が「今、これまでの人生で最悪の時期なんだ」と言っていた。それぞれが、他人との関係で苦しんでいるようだった。  自分の人生は自分にしか生きることはもちろんできないが、他人が大きく関わることは避けられない。100万回生きた猫のように、他人によって初めて本当の生を生きる事ができる場合もあるだろう。どのような他人とどのように出会うのか、それを自分で決めることはできない。それが悩ましい。
 写真は photo library (https:// www.photolibrary.jp) より。